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奥州藤原氏

世界遺産に登録された、平泉の文化を
作ったとも言えるのが、平安時代に
東北地方を治めていた奥州藤原氏です。

 

豊富だった金や馬等を利用して
当時の都をしのぐ都を、平泉に
築いたとされています。


奥州藤原氏とは

奥州藤原氏とは、初代の清衡から
二代基衡、三代秀衡、四代泰衡と続く
一族の事を言います。

 

一族は4代に渡り、約100年もの間
栄えましたが、繁栄という点では
4代の泰衡は、跡をついで直ぐに
奥州合戦(奥州征伐)により亡くなり
平泉の繁栄にも陰がさしはじめました。

 

 

その為奥州藤原氏というと通常、4代の泰衡を除き、
初代の清衡から三代迄の秀衡までの時代を指します。
ちなみに、平泉が最高の繁栄を築いた時代は、三代秀衡の時代です。


奥州藤原氏の原点

奥州藤原氏の原点というと、
初代の清衡と言う事になるのかも知れません。

 

然し私は、清衡の父である藤原経清
(ふじわらのつねきよ)こそが、奥州藤原氏の原点だと思います。

 

何故なら、常清は大ムカデの退治で有名な、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の
子孫にあたる人物で、本来は朝廷側の人間です。

 

それに対して清衡の母は、東北地方の有力な豪族で、
当時朝廷と対立していた安倍頼良の娘です。

 

朝廷側から見ると、常清は裏切り者と言う事になり、その後の前九年の戦いで
清衡は幼くして、父や母方の親戚である阿部一族を全て殺されます。
そして母は、朝廷に加勢した清原氏の妻となり生き延びます。

 

つまり、幼い清衡から見たら、父や叔父の敵に母も盗られて、
憎い敵が近くにいても、手も足も出せないと言う状況です

この状態はいくら生きる為とは言え、幼い清衡少年には辛かったと思います。

このような幼年期から青年期の過酷な経験が、実の兄弟である家衡との戦いである
後三年の役に駆り立て、一部に冷酷とまで言わせた位の殺戮を行ったと言われます。

 

そして、その経験や後悔から、中尊寺を建立して、浄土思想を普及させて行ったと言われます。
中尊寺は、前九年と後三年の役での犠牲者を敵味方なく弔い、
戦のない平和な国を作ることを、目的に建立したと言われています。

 

そして平和思想とも言うべき浄土思想は、その後も二代基衡、
三代秀衡と受け継がれていきました

このような事を考えると、清衡の父である常清こそが、後の奥州藤原氏を作り、
反映させた原点と言えるのではないでしょうか。

 


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