奥州藤原氏の歴史と栄華

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奥州藤原氏の歴史と栄華

奥州藤原氏の歴史と栄華のページでは
奥州藤原氏の初代である清衡から
最後の藤原氏と言える四代泰衡迄の
4人が行ったことや成し遂げた偉業、
また、どうしてこれだけの繁栄を築けたか等に
ついてご紹介しています。

 

(写真は毛越寺本堂です)


奥州藤原氏の足跡

 

 

奥州藤原氏の4人の軌跡です。

 

清衡

清衡は奥州藤原氏の初代であり、その後100年に渡り栄華を誇る
奥州藤原氏、並びに平泉の基礎を作った人物です。

 

幼い頃に父を失い、その後の戦いで弟を失い(後三年の役において
敵味方に別れて戦い、結果的に殺してしまった)ました。

 

その経験から中尊寺を建立。
戦のない平和な世界を作ろうとしました。
それが浄土思想と言う形で受け継がれていきます。

 

基衡

基衡は清衡の息子。つまり、奥州藤原氏二代です。
亡き父である清衡の教えを守り、浄土思想のより一層の普及に尽くした人です。

基衡は毛越寺を建立したり、浄土庭園を作り仏教都市作りに着手したと言われます。
また、公卿との間にもパイプを作り、政治的にも朝廷からの独立を模索して
一時的に成功したとされています。

 

秀衡

秀衡は奥州藤原氏三代です。
父である基衡が手がけていた毛越寺を完成させ、当時都のあった平安京を凌ぐとまで
言われた無量光院などを作り上げました。

 

秀衡の時代が、奥州藤原氏の時代の中で、最も栄華を誇ったとされる時代です。
然し、最後には源義経(みなもとのよしつね)をかばったり、
平家退治の依頼を断ったなどにより、平泉の繁栄に陰を落とし始めたと言う事も言えます。

 

泰衡

泰衡は奥州藤原氏四代です。
代をついで直ぐに、戦により(奥州征伐)鎌倉政府に滅ぼされました。
そのキッカケを作ったと言われるのが源義経です。

 

源頼朝は、鎌倉政府に働きかけ義経をかくまったと理由で、
奥州に兵を進め藤原氏を滅ぼしました。

この戦いで、栄華を誇った平泉と、奥州藤原氏の時代は完全に終わりました。

 

通常奥州藤原氏というと、初代清原から始まり、清衡治政33年、2代・基衡治政33年、
3代・秀衡治政33年の約100年間を指します。
これは四代の泰衡は、代をついで直ぐに亡くなったためです。


奥州藤原氏の勢力図

 

奥州藤原氏が最大の勢力を誇ったのは
12世紀で、当時藤原氏は、南は現在の福島県にある
白河の関から、北は現在の青森県にある外ヶ浜までを
制圧していました。

 

現在の東北地方と同じ地域が、
そのまま当時の藤原氏の勢力図と言えます。


黄金と良馬


平泉がある南岩手地域や周辺の山脈には多くの金山が存在していました。
当時大量に取れた金が平泉の黄金文化を作りました。

岩手県県北地域や青森県県南地域は、戦に強い良馬の産地として有名でした。
現在でもこれらの地域には、馬の産地を物語る地名が残されています。
(一戸や二戸、三戸、五戸等の戸が付く地名)

 

当時はこれらの金や馬が、藤原氏の経済力のみならず、政治力も支えていたと言われます。
このような黄金や良馬等を上手に活かす事により、約100年のも間
藤原氏は京を凌ぐほどの隆盛を誇った平泉を作り治めたわけです。

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